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”海に降る雪”について
雪は絶え間なく降り続け 絶え間なく消え続ける いく千万 いく億 いく兆もの 雪の結晶が 音もなく消え続ける ”大いなる消費” **************** 「消え去り続ける言葉」を テーマに言葉を綴ります 本サイトはこちらです。 自称ダンディ文豪(自称)の戯(ざれ)言 お気楽お楽しみなんでもあり。 皆さんへのコメント、訪問は こちらのe_vansが伺います。 以前の記事
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2017年 10月 27日
ある日のこと 電車の中で車内の様子を何気なく見ていたら、斜め前方の席に高校生くらいの男女が座っていた。二人とも見るからに「高校生とはこうあるべき」的な、華美ではなく清潔感が漂う初めてのデートと言った感じの服装だった。とは言っても、あくまでそう僕が見てるだけの話であって、二人がはたして高校生なのか、初めてのデートなのか聞いたわけではないので分からない。知りようもない。ただ、なんとなく好感が持てる二人だったという事だけわかって欲しい。 車内はそれほど混んではいないが、座席はほぼ埋まっていた。 電車が駅に着くと、数人が席を立ち、ほぼ同数の乗客が静かに列車に乗り込んできた。二人の座席の前に、やや年かさに思える男性が立った。座席は既に埋まり、男性は吊皮を掴んだ。 ちょっとの逡巡。 やがて男の子が席を立ち、目前の男性に席を譲ろうとした。その仕草もどこか初々しい。 だが男性は優しく手を振り、何と言ったのかまでは聞きとれなかったが席を譲られる事を拒否した。男の子はやや迷った後、静かに席に腰を下ろした。 少し照れくさかったのか、高揚した頬。 僕は心の中で彼に声をかける。 よくやった!グッジョブ!と。 僕は心の中で彼の肩をたたく。 僕はこんな風に考えてるんだよ、と。 君はこれからもしかすると、たくさんの人に席を譲るかもしれない。そして、たくさんの人に断られるかもしれない。でも、そんな事気にすることはない。 知らない人に優しく接するのは、実は勇気が必要なんだ。 何も悪者を叩きのめす事ばかりが勇気じゃない。人に親切にする事も、それを見なかったことにしようとする自分に打ち勝つ、ひとつの「勇気」なんだ。どんなにちっちゃくたって、それは立派な「勇気」だ。そしてその勇気は、はじめから誰しも人に備わってるものじゃない。勇気を持つには、トレーニングが必要なんだ。たくさん実践して、たくさん断られて、そしてようやくようやく、本当に必要な時に発揮できるようになる。それはいつか、「善いこと」ですらなく、「当たり前のこと」に変わる。だから、断られたって気にすることはない。恥ずる必要もない。どんどん譲って、どんどん断られるといい。それは「勇気のトレーニング」なのだから。 僕は心の底から君に喝采を送るよ。 それに、何よりも見てごらん。 少し照れている君を見つめる彼女の、誇らしげな感動と憧れに満ちた目を。 それが見れただけで 充分じゃないか、と。 彼女の視線に気づいたのか、彼は彼女に向かい微笑んだ。 彼女もまた、眩しいまでの笑顔でそれに答えた。 #
by bungo_eva
| 2017-10-27 23:03
| 論のようなもの
2012年 04月 02日
「あのさ!・・・バス、来るかなぁ?来るかなぁ?」
蕾がほころび始めた桜並木を眺めながら歩いていたら、突然そんな言葉が耳に飛び込んできた。上ばかり見ていたので視線を大声の聞こえた方に向けると、バス停の前にやや大柄な男と、そこから足早に立ち去る母子の姿。何があったのだろう?と、その状況を理解するのに、少しだけ時間が要った。住宅街にはあまり相応しくない大声でバスの事を訪ねていたのは、その大柄な若者のようだ。母子は振り向いてはいけないと言わんばかりに、声を発した若者には目も向けず、僕とすれ違って行ってしまった。子供用の自転車に乗った女の子は、少し怯えたような表情をしていた。 僕の進行方向で起きた出来事だったので、僕は必然的に大声で尋ねた若者の元に近づいていく。親子に向けられていた彼の問いかけは、今度は僕に向かって放たれる。 「あのさ!・・・バス!バスがさ、来るかな?来るかな?来るかな?」 彼は大声で僕に聞いてきた。 彼の事をどういう風に言ったら良いのだろう? どう表記したら、誰をも傷つけることなく伝える事ができるのだろう? たぶん、 彼は若干の知的障害を抱えているのだろう。彼の声色や所作・そして定まらない視線は、彼らのような人々に対しての知識を全く持っていない僕のような人間から見ても、薄々感じ取れる奇妙さを持っていた。年の頃は分かりにくいが、20代とも30代とも思える。口の周りに無精ひげが伸びたままになって、彼のように大柄で風変りな男から大声で話しかけられた母子はびっくりしたろうにと、彼には悪いが母子が気の毒になった。 「バス・・・来ないのかな?来るのかな?」 「バスに乗るのか?俺もこの辺はあまり詳しく無いんだよな・・・。」 「来ないのかな?来るのかな?」 僕の言葉にかぶせて畳みかけるように彼は尋ねる。事実、僕はそのバス停にあまり馴染みが無く、ここを通過したバスがどこまで行くかも知らない。止むを得ず、バス停のダイヤを確認してみる。 「バスでどこまで行くんだい?」 「○○まで!・・・バス、来ないのかな?・・・」 「ちょっと待てな・・・。いま3時半だから・・・バスはあと5分もしたら来るかな・・・?」 「来るのかな?!来るの?来るの?」 「たぶん・・・いや、きっと来るよ。」 彼の大声につられて、こちらも知らず知らずのうちに声が大きくなっていた。知らないバス路線の運行状況など僕にわかろうはずもないのだけれど、何となく彼をそのままにしておけなくなって、僕も彼と並んでバス亭に立っていた。雲間から春の陽射しがさして来たけれど、思いのほか風は冷たい。 「お兄さんもバス乗るの?」 「いや。乗らないけど、バスが来るまで一緒に待っててやるよ。」 彼の何となくな安心感が伝わってきたような気がした。そのためにか、彼ははじめてバス以外の事を僕に語りかけてきた。 「テレビでさ、東海地震は30年以内に来るって言ってたよね!30年以内にって!東海地震、来るのかな?」 バスの次は地震か・・・? どうして君は僕の自信の無い事ばかり聞くのかい? 「地震か・・・さぁ、俺には分からないな・・・。」 「地震、来るのかな!来るのかな!恐いな・・・恐いな・・・。」 言ってからしまった!と思った。彼の落ち着きのない視線に地震への恐怖の影が浮かび、彼はやがて涙ぐみはじめた。あの地震の恐怖は、彼の小さな心にさえも大きな影を落としていたのだ。 昔、同じような思いをした事があった。甥っ子が小学校に上がるか上がらないかの頃の事だったと思う。甥っ子と二人で「宇宙の不思議」という科学辞典を読んでいた時、太陽の末期について書かれていたページがあった。そこには「太陽は徐々に膨張していき、やがては地球をも飲み込むほどに巨大化しますと書かれていた。 「ねぇ。太陽が大きくなって地球も飲み込むと、僕らはどうなっちゃうの?」 「そうだな・・・それは伯父さんにもわからないなぁ。」 「地球も燃えちゃうってことなの?そうなったら、お父さんやお母さんも死んじゃうの?」 「それはもっともっと先の話だよ。」 そんな僕の苦し紛れの説明など何の力も持たなかった。甥っ子の目にはみるみる涙が溢れ、やがて彼は大泣きし始めた。しばらくの間、彼は泣きやまなかった。抱えきれない悲しみを感じた小さき心を前にした時、なまじっかの知識ほど頼りにならないものはない。その時僕は、それを痛切に感じた。 「大丈夫だよ。地震は来ないよ。」 僕は彼の肩をポンと叩いた。 「本当?東海地震は来ないの?・・・」 「ああ。来ない。大丈夫だ。絶対、来ない。」 力を込め僕は言い放つ。その言葉を聞くなり、彼の表情はうってかわって明るさがさし、またぞろバスの到着の事に話が変わっていった。 神でも預言者でもない僕は、たぶん嘘つきなのだろう。でも、その嘘が小さき心を救えるのだとしたら、僕は大嘘つきになろう。発生確率や被害対策や政策や建築は、誰か賢い人たちに任せておけばいいさ。ただ、今は君が安心してバスに乗れる事の方が大事なのに違いない。バスが来る方向に顔を向けると、薄紅色の蕾をたわわにつけた桜並木の向こうから、名古屋市営バスの青い車体が見えてきた。 「ほら、バスが来たよ!」 「バス来た!バス来た!」 彼はありがとうと言う事も無く、開いたバスの中にそそくさと乗り込んでいった。 それでいいんだ。僕は誰に言うともなく一人呟いた。 「気をつけて行けよ。」 バスは桜並木の中を走りだした。 ふと、沈丁花の香りが漂ってきたような気がした。 #
by bungo_eva
| 2012-04-02 21:28
| 雑文のようなもの
2009年 05月 10日
2年前の事になる。
母が心臓手術を受けた。 【心やさしい読者の皆さんに無用な心配をかけないため、あらかじめ断わっておきますが、現在、母は元気に回復しています。時折、僕に電話をかけてきて小言を言えるまでに回復しています。】 実家からの電話は、悪い知らせのことが圧倒的に多い。 一昨年秋の初めに弟からかかってきた電話は、ご多聞にもれず悪い知らせだった。母の心臓に悪いところが見つかり、入院することになったとの事。ただ、この時点での家族の認識は「健康診断でちょっと異常が発見されたので、少し入院して様子を見る」といった程度の軽いものであった。普段だったら少し驚くくらいで気にも留めないのだろうが、今回は帰省するよと弟に伝えた。弟は、少し意外といった感じで電話を切った。 たしかに以前の僕であったら、仕事にかこつけて気にも留めていなかったに違いない。虫の知らせ、と言えばそれらしくも思えるが、その時の僕に予感めいたものがあったわけでは決してない。ただ、久しく帰ってもいなかったので、これを機会に実家にも顔を出しておこうと思った程度だ。 以前記事にしたが、僕は祖母の死に目に会えなかった。いや、祖母を見取ることから逃げ出した。その後悔の念は今を持ってもなお僕の心の深淵に息づいていて、ふとした拍子に暗闇の中から立ち上がり僕を指差し面罵する。もちろん僕を非難しているのは祖母ではない。祖母はきっと許してくれている。僕を許していないのは、他ならぬ僕自身だ。 やがて母は病院を転院する。実家のある街にもそれなりに大きな病院はあるのだが、容体が不安定なので車で一時間以上かかる仙台市の病院まで救急車で搬送されたとのことだった。その事一つで事の重大さがわかりそうなものだが、僕はどうにもこうにも楽観的にできているものらしい。その事を聞いても母の病状がそれほど重篤であるという想像すらしなかった。 会社に数日の休暇を申し入れ帰省した僕は、仙台の病院で弟と落ち合った。母の病室を訪れる前に、担当医の説明を聞こうということになり、僕は生れてはじめてカンファレンスルームという場所に入った。ドラマなんかで見るより、ずいぶん狭い。そんなのんきな感想を持てるほど、その時までの僕は母の手術を甘く見ていたのだろう。 担当医の説明は、どこか希望的観測を持っていた僕の気持ちを打ち砕くものだった。 一刻の猶予もない状況。おそらく僕よりも若いであろう担当医は、言葉を選びながらもそう言った。 【病状の詳細については省かせていただきます。もしかしたら母と同じような病気を抱え、ブログを検索している人がいるかもしれません。その方に不用意な情報を与えることはしたくありませんので、病名や症状・手術の詳細については記述しないことにしました。その分わかりにくい文章になるかもしれませんが、ご了承ください。】 「今手術を行わなければ、いつ血管が詰まり心停止するかわかりません。そういう危機的な状況です。」 担当医は真剣な面持ちで僕たちに説明した。 それはつまり、とまで口にしたけれど、後は言葉にできなかった。 「手術の成功率はどれくらいですか?」 僕が口にすることをためらっていた言葉を、弟が尋ねる。 「手術自体は本来難しいものではありませんが、心臓を止めるのでリスクが全くないとは言えません。それにお母さんの場合は他の要素もあってどのような不安要素が出てくるかわかりません。数字で表すことはできません。ただ、先ほど言いましたように今手術をしないと、いつ血管が詰まるか分からないのです。」 できるだけ冷静に聞いていたつもりだった。でも、担当医は最後の最後まで僕たちが期待していた一言を口にすることはなかった。もちろん安易に言う事が出来ない彼の立場は分かる。十分すぎるほどわかるつもりだ。けれど・・・。僕はその時はじめて、母が死に直面しているという事実と対峙した。 僕たちは入ったときと比べ物にならないほど疲弊した心持で、カンファレンス室を後にした。 担当医にあいさつをするのを忘れたと気がついたのは、だいぶ後になってからだった。 病室に入ると、母は驚いたような表情を見せた。 「わざわざ来てくれたんだ。すまないね。」 僕の顔を見るなり、母は謝った。 心臓に死に直結する重い病を抱えながら、母は僕に謝った。 謝るべきは僕のほうじゃないか。心配ばかりかけてきたのは、僕のほうじゃないか。 母の心臓を蝕んだのは、病なんかではなく僕なのかもしれないというのに。 病院のベッドの上で、浮腫んだ顔に少し照れたような表情を浮かべ、母は僕に謝っている。 仕事休ませてしまってすまないと、母は僕に謝っている。 僕は言葉を失って、ベッドの脇に立ちすくむしか無かった。 母の手術は13時間に及んだ。 通常なら5~6時間で終わると聞かされていたので、6時間を過ぎても終わらない手術に容易ならざる状況であることが次第に明らかになってきた。待合室には親戚が大勢詰めかけていたが、その一人ひとりが代わる代わる母の病状と手術の成否について尋ねてくる。そんなの医者でもない僕にわかるわけはないのだが、分かる範囲の事と術前に医師から聞いた話を、できるだけ噛み砕いて皆に話す。 ふと気がつくと、9歳になる姪が隣に来て僕が親戚に話す説明を一生懸命に聞いている。 母は孫にあたるこの姪をことのほか可愛がっており、姪もおばあちゃんに懐いていた。 姪はきっとこの小さな心で不安感と闘っているに違いない。 僕は姪の頭を撫でながら、担当医が決して口にしようとしなかった一言を口にした。 「きっと大丈夫だよ。」 姪はにこりともせず僕の顔を見つめていた。 出来る限り言葉に自信を込めたつもりだったが、姪の瞳から不安の影は消えない。 大丈夫じゃないのは、言っている僕が一番よくわかっているのだから無理もない。 手術が終わったのは夜10時を過ぎたころだった。 エレベーターから運び出されてきた母のベッドには数知れない医療器械とチューブが付けられ、それが母の命を保っているというのが一目でわかった。カンファレンスルームに表れた担当医は明らかに疲弊した表情を浮かべていたが、手術は一応成功したと言った。だが、その言葉に手放しで喜べないのは我々自身がよくわかっていた。 その晩は僕が病院に泊まり込むことになっていた。実家は病院から車で一時間ほどの距離にあり、一番身軽だったのが僕であったからそうする事にした。付き添いと言っても専用の部屋があるわけでもなく、病室の空いているベッドに寝るだけ。手術待ちの疲れですぐ寝れるかと思ったが、病院の窓越しに見える東北随一の歓楽街のネオンがやけに明るく感じられ寝付かれなかった。 ベッドに横たわりながら、僕は同じ病院の一室で、今まさに鼓動を止めつつある母の心臓の脈動を感じていた。今この瞬間にも、死に向かいつつある母の心臓の存在を感じ取っていた。それはドラマティックな感想でも何でもなく、心臓という筋肉の拍動が奏でる微かなかすかな振動であり、同時に母の命そのものの圧倒的な存在感だった。 不思議な話だ。 僕と母の縁は、もしかしたら他人よりも希薄だったのかもしれない。僕の養育者として絶対的な存在であったのは祖母であり、母はその次であったような気がする。母は母に違いないのだけれど、初孫を溺愛する祖母の影に隠れて一歩身を引くような距離感があった。それが意図したものだったのか、それとも母の性格から生じた物かはよく分からない。ただ祖母が亡くなってからもその距離は変わらなかったのだ。 それが、病院の一室で死にゆく母の鼓動を感じ取った時、その時はじめて母の母たる存在感を僕は感じていた。もしかしたらそれは、胎内にいる子供が感じる母親の存在感と同じだったのかもしれない。 夜半にふと目が覚めた。 カーテンに懐中電灯の明かりが映るのが見えた。 その事が何を表すのか。 その事が瞬時に頭の中を駆け巡り、僕は戦慄した。 母の容体に何か問題が発生したため看護師さんが僕を呼びに来たのだ。 「・・・・さん、先生がお話があるので来ていただけますか?」 時計を見ると朝の5時だった。 とうとうその時が来たのか。血流が頭から下がっていくのがわかった。 母の術後の状態が良くなく、早急に再手術が必要であると担当医は説明した。しかも、その手術をする事によってまた別のリスクが生じるのだが、今手術を行わなければ母の心臓は止まる。確実に、止まる。手術の同意書に署名をしながら、僕は止まりつつある母の心臓の存在を、また感じていた。 夜明け前に母の再手術は始まり、会社員らが会社に出勤し始めるころに終了した。 「再手術は成功しました。心臓はかろうじて状態を回復しつつあります。しかし、このまま機能が回復しない可能性もあります。ここから後はお母さんの心臓の回復力にかかっています。」 担当医の顔にもさすがに疲弊の色がうかがえた。無論、それは僕らも同じだったに違いない。 それから約3週間にわたり、僕は病院で過ごす事となる。 付き添いと言っても特に何もすることはない。朝、昼、夕方とI.C.U.に入って麻酔で眠ったままの母の様子を数分眺め、機材の数値に一喜一憂し、頻繁に訪れる見舞客に母の容体を説明し、残りの時間はただ漫然と病院の待合室で過ごす。いつ何時容体が急変するか知れないので外出はできるだけ控えるようにと言われていたので、食事の時を除き病室内で過ごした。それはつまり、容体が急変し処置の必要が生じた時に同意をとるための要員としての付添いだったのだ。 「お母さんの容体が安定するまで付いて上げて下さい。」会社の社長がそう言ってくれたのがありがたかった。もし僕が前の会社に勤めていたのならこんな付きそいはできなかった。きっとこれも幸運だったのだろう。僕が転職したのはこの時の為だったのかもしれない。ふとそんな思いが頭を過ったりもした。 母の手術の間に初秋から晩秋へ季節は移ろい、やがて初冬へと差し掛かっていた。 その間、母と同じ病状の患者さんの手術が数件行われ、数日で退院して行った。 結論から言うと、僕が帰るまで母は麻酔で眠らされたままだった。 容体がある程度安定したのを見届け、付添を弟と交替し僕は名古屋へ戻った。仕事の事ももちろんあったが、麻酔から覚めた母と何か言葉を交わすのが照れくさいという気持ちがあったのも確かだ。付き添い中に7回くらい読み返した「竜馬がゆく」は実家に置いてゆき、それは甥っ子の本棚に今は並んでいる。 手術から2ヶ月ほど経ったある日、実家からの電話で母の声を聞く事が出来た。久々に聞いた母の声は長い期間人工呼吸器を挿入されていたため、ひどくしゃがれていた。 「ありがとう。」 母はしゃがれた声で、そう言った。 僕は母に感謝されるようなことは何もしていないのに、母はそう言った。 電話を切った後、僕は声にならない「ありがとう」を呟いて一人泣いた。 「ありがとう。」 母の日の贈り物が届いたと伝える母の声は、もうだいぶ以前の声に戻ってきている。 あれから2回目の母の日だ。 大したものは送って無い。ありがとうなんて言われるほどの事はしてない。 あなたが元気でいてくれる事、 生きて鼓動を続けてくれているその事こそが、 僕にとっての「ありがとう。」だ。 #
by bungo_eva
| 2009-05-10 00:44
| 雑文のようなもの
2008年 11月 11日
どうして書き続けるのだろう。
近頃、そう考えることが多くなった。 昔から文章を読むことも書くことも好きだったのは確かだけれど、こうやって何かにこだわりながら書き続けているのは何故なのか。物語を書かなくっても、日常生活に何の支障もない。むしろ、幾分でも人を笑わせたり感動させたりできる物語を書こうと思ったら、文才なんて上等な代物ははなから持ち合わせていないのだから、かなり頭を悩ませなければいけない。話の筋を考えてすんなり眠れない夜もある。いつ情景を思いついても良いように、筆記用具は手放せない。にも関わらず物語を綴りたいと思うのは、自分の心の奥底に自分でも気づかない何かがあるのかも知れない。 源流、とでも言ったらいいのだろうか。 大地の奥底に見えない水脈が流れるように、意識のずっと深い所で流れ続ける川がある。時折、僕は地面に耳をつけ水の流れる音を聞く。神経を集中してようやく聞き取れる鼓膜の震えに、僕はその存在を確信する。それがどのようなものなのか、何でそれが僕を突き動かしているのか、この文章を書いている今も明確な答えは出ていない。 ただ、頭の片隅に浮かぶ一つのイメージがある。 それはこんなものだ。 名もなき語り部たち 太郎は村境の丘に立って、隣町から続く街道を眺めていた。 丘の上に桜の古木が植えられており、春には薄紅色の花をつけ村人たちの目を和ませるのだが、この季節には赤茶けた枯葉を太郎の肩に降りかけるだけだ。それでも太郎は手触りの悪い古木の幹に手を添え、時折背伸びまでして道の向こうを見やる。 道の両脇には刈り入れを終えた田が広がり、村に秋の訪れを告げる。村を囲む山々は赤や黄色の彩りを増し、畦に架けられた稲藁に赤蜻蛉(とんぼ)が止まっている。 太郎は朝から飽きもせず、平介が姿を現すであろう道の曲がり角を見つめていた。 誰もいない道の上を、秋風が通り抜けた。 行商から帰ってきた弥三郎叔父が、隣町の旅籠に薬売りの平介が来ていたと教えてくれたのは、昨晩の事だった。叔父は旅塵を払うのもそこそこに、上がりかまちに腰を降ろすなり奥にいた家人に声をかけた。今年も平介の来る季節になったんだな、と両親は感慨深げに言い、太郎はその便りを聞いたとたん飛び上るように喜んだ。まったく太郎は平介が好きだな、と弥三郎叔父が言うと太郎は少しだけ得意な気分になった。平介は村々をまわって薬を売って歩く行商人だった。この時代、医者などはお殿様のいる大きな町まで行かなければ見ることもできず、それだけに平介のような行商人が人々の生活にとって欠く事の出来ない存在だった。 太郎は背伸びして、やがて平介が姿を現すであろう道の先を見つめた。 太郎の世界は狭い。この村堺の丘から見渡せる狭い山間の小さな村が太郎の知る世界のすべてだった。お父や弥三郎叔父はそれよりも少しだけ世界が広い。それでもここから歩いて丸一日かかる城下町までがせいぜいだ。平介はそれよりもはるかに遠くの村からやってくる。小さな村々を回り、旅籠のない村では世話人の家に泊まりながら商いをしていた。 太郎は平介が好きだった。太郎に限らず、村人の誰もが平介の訪れを心待ちにしていた。毎年秋の刈り入れが終わり、そろそろ冬支度を始めようかと村人たちが思い始めるころに平介は村に姿を現す。他の商人たちが背中を丸め足早に歩くのに比べ、平介は鷹揚(おうよう)に山や木々を眺めながらおおよそ商人らしからぬ容貌で歩く。まるで殿様が歩いているようじゃ、村人ははやし立てるが平介は気にも留めない。 平介が家に来ると、さほど多くない村人たちが総出で宿泊場所になっている太郎の家に押し掛ける。皆、平介の話を聞きに来るのだ。それを知っていてか、平介は薬の商いもそこそこに、囲炉裏のいつもの場所に陣取って諸国の出来事を面白おかしく語り始める。太郎は囲炉裏の火に照らされた平介の顔を眺めながら、まだ見たこともない江戸の町の賑わいや他国の話を思い浮かべるのが好きだったのだ。 「平介は、なしてそんな面白い話を知っているの?」 太郎はあるとき平介に尋ねた。 「いろんな国をあるいているからのぅ。」 「でも、他の商人は平介ほどには話できんぞ。」 平介は少し考え込む様子を見せた。 「たぶん、他の商人は歩くのが早すぎるんじゃろ。話ってもんはな、ぼん。みんなのココの中にあるんじゃ。」 平介は太郎の胸の辺りも指差した。 「ゆっくり歩いて景色を眺めとったら、話なんてモンは自然に出てくるもんなんじゃ。」 そう言うと平介は人懐っこそうな笑顔を見せて笑った。 曲がり角から人影が見えた。 気がつくと太郎は丘を駆け下りていた。 村人たちとは明らかに違う、殿様のような歩き方。平介に違いない。 「ぼん。大きゅうなったのぅ。」 平介はそう言って頭を撫でてくれるはずだ。 太郎は去年より少し丈の短くなった着物の裾をからげ、頬に秋の風を感じながら平介の影に向かって道を駆けおりて行った。 ◆ この時代にテレビや新聞はない。 にも関わらず、昔話の類(たぐい)は日本各地に多くの類型が存在する。無論、その多くは明治時代に整えられた初等教育の賜物であるかもしれない。しかし、それ以外に村々をめぐり多くの物語を語り伝えた平介のような名もなき語り部たちが数多くいたのではなかろうか。彼らは歴史の教科書にも国語の教科書にも載ることはない。ただ、彼らが伝えた物語のいくつかは、人々を諌める道徳の物語として、またある物語は悲恋の恋物語として、日々の労苦を忘れさせる娯楽話として、人々の心の中に生き続けた。物語のいくつかは根を下ろした土地の空気を養分として様々な変遷を重ねる。その伝搬を司っていたのは、紛れもなく我々の父や母たちであったはずだ。 文化とは華麗な建築物ばかりを言うのではない。 平介たちが心の中で作り上げた物語は、文化の縦糸として現代まで生き続けているのではなかろうか。 たぶん、と僕は思う。 僕はそういう物語の語り部になりたいのではなかろうか。 無論、現代において情報は平介の時代と比べ物にならぬほど氾濫し、物語の新鮮味は失われてしまった。 映画やテレビや出版物、そして多量に生産し消費される物語の数々。 それを否定するつもりは全くなく、その中にも僕が大好きな物もある。 だけど、僕の立つ場所はそこではない。 僕は平介のような名もなき語り部になりたいのであろう。西鶴や芭蕉のように名を知られた物書きではなく、国々をめぐり人々と触れ合い、他人よりゆっくり歩きながら目にした景色を元に人々の心の片隅に残る物語を紡ぎだす名もなき語り部。それが僕の奥底に流れる水脈の実像なのかも知れない。近頃、そんな風に考えている。 僕はこれからも日々消費されていくだけの毎日の中で、何にもならない、何の役にも立たない、消費され消えていく言葉を書き連ねていくのだろう。あたかも、森の枯葉が地面に降り積もり、長い時間をかけて肥沃な山の土となり、鬱蒼と茂る樹木を育てるように。 それでいい。 そうでありたい。 そんな風に思っている。 #
by bungo_eva
| 2008-11-11 21:23
| 雑文のようなもの
2008年 10月 28日
それは祖母の葬式も終わり、近しい親戚だけが残って祖母の形見分けをしていた時のことだった。
祖母は10年も寝たきりだった。だから形見分けと言っても分け与える遺産があるわけでなく、ただ身の回りの雑多な物を片づけているだけで、90才を越えた大往生だったからしんみりとした雰囲気もなく、長閑(のどか)な春の陽射しの下で近しい親族が集まって思い出話に花を咲かせながら、古い荷物の虫干しをしているといった感じの昼下がりだった。 祖母が嫁入り道具として持ってきたという曰くつきの衣装ダンスの隅に、僕は小さなブリキの菓子箱を見つけた。菓子箱は長い年月の間に銀色の輝きをすっかり失ってしまい、傷やへこみだらけのみすぼらしい姿でタンスの奥に、ひっそりと佇んでいた。誰もが見過ごしてしまいそうなその箱。開けるのも一苦労するほど錆びついた菓子箱に、一葉の色褪せた古い絵葉書が、あたかもその手紙に向けた祖母の想いを表すかのよう大切に仕舞われていた。 おそらく万年筆で書かれたものだろう、表には祖母の名前と住所が青インクの丁寧な文字で書かれている。葉書を裏返すと港の風景が描かれていて、海に浮かぶ船はどうやら軍艦のようだ。左下に、「旅順港」という文字が読み取れる。僕はもう一度葉書を裏返す。宛先の下半分に律儀な文字が並んでいた。 「 皆、元気で変わりはないか。 子供達はだいぶ大きくなったことだろう。 皆、母さんの言うことを聞いて、良い子にするように。 春になったら、そちらに帰れるだろう。 」 時を経てだいぶ薄くなった消印は読み取りにくいが、昭和19年に旧満州の町から投函されたもののようだった。 その葉書を祖母は生前、宝物のように大切にしていた。 葉書を眺めながら、僕はそのことを思い出していた。 僕は学校に上がる前まで祖母と一緒に寝ていた。祖母は初孫だった僕をことのほか可愛がり、僕が寝つくまで毎夜話をして寝かしつけてくれていた。明治期に田舎の小さな村で生まれ育った祖母に、たくさんの話を聞かせられるだけの話題があったわけもない。必然的に話は祖母の回想話になり、僕はそんな祖母の思い出話を聞いて育った。思い出話の中では祖父の話が一番多く、またその話をするときだけ、祖母の表情が生き生きしているように思えた。 「祖父ちゃんはね、とてもいい男だったんだよ。」 祖母は臆面もなく、そう言った。 「野菜を町に売りに行くと、町の人から『おなご(女)八百屋』さんって言われてたんだ。物腰が穏やかで優しかったからさ。」 祖父は農作業の傍ら作った野菜をリヤカーに積み、歩いて一時間程にある港町に行商をしていたそうだ。後で聞いた話だが、僕が子供のころ住んでいた家は、祖父が建築途中で放棄された建材を買い取り自分で建てた家なのだそうだ。おそらく多才で行動力のある人であったのだろう。 「本当に優しくてさぁ。祖母ちゃんは、何も知らないでお嫁に来たから、なんでも祖父ちゃんに教えてもらったんだ。」 明治生まれの祖母は、孫に臆面もなくのろけ話を聞かせていた。 顔も見ずに結婚式を迎える。そんな時代だったはずだ。 「だから、祖母ちゃんは祖父ちゃんと暮らしていた時が一番幸せだったんだ。」 そんな祖母の幸せは長く続かなかった。結婚し、3人の子供をもうけた頃、戦争の時代がはじまった。 祖父は看護兵として召集される。 最初は旧満州に、そして沖縄へと送られ、あと数か月で終戦という時期に沖縄の地で戦死した。 伝え聞いた話では、防空壕の奥で怪我人を看病していたが、照明もない防空壕の奥は手当てをするにも暗すぎたため出口近くに移動したところ爆弾の直撃を受けたという事だった。出来すぎた話に思えるかもしれないが、その時防空壕にいて生き延びた戦友の方が家に弔問に来られたのを、僕は微かな記憶として留めているから、だいぶ確かな話なのかもしれない。 祖父の遺品は、出征前に残して行った髪だけだった。 それから祖母は3人の子供を抱え、祖父に変わりリヤカーに野菜を積み行商に出始めた。田舎町であるとはいえ、女手一つで終戦後の混乱期を乗り切るのは、さぞかし大変だったことだったろう。再婚の話もあったのではなかろうか。にも関わらず、祖母は祖父の代わりにリヤカーを引き続けることを選んだ。 舗装もされていないでこぼこ道を、どんな思いでリヤカーを引き続けたのだろう。 雨の日や雪の日に、どんな思いでリヤカーを引き続けたのだろうか。 自分の身の上を恨むことなどなかったのだろうか。 祖母の思い出話に、その頃の苦労話が出てきたことはない。祖母はただ、優しい祖父の面影を僕に語り続けた。今となって当時の祖母の思いを知ることは叶わない。ただ、祖父の残した一葉の絵葉書だけが、祖父と祖母の心を伝えてくれている。僕には、そう思えてならない。 飾りも衒(てら)いもない文面に、古ぼけた絵葉書に、二人の想いが込められていた。 春の暖かな陽射しが降り注ぐ実家の縁側で、 僕は祖母の宝物だった絵葉書を、 いつまでも見つめていた。 #
by bungo_eva
| 2008-10-28 23:11
| 雑文のようなもの
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