カテゴリ
”海に降る雪”について
雪は絶え間なく降り続け 絶え間なく消え続ける いく千万 いく億 いく兆もの 雪の結晶が 音もなく消え続ける ”大いなる消費” **************** 「消え去り続ける言葉」を テーマに言葉を綴ります 本サイトはこちらです。 自称ダンディ文豪(自称)の戯(ざれ)言 お気楽お楽しみなんでもあり。 皆さんへのコメント、訪問は こちらのe_vansが伺います。 以前の記事
2017年 10月 2012年 04月 2009年 05月 2008年 11月 2008年 10月 2008年 09月 2008年 01月 2007年 12月 2005年 01月 2004年 12月 2004年 11月 2004年 09月 その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
2009年 05月 10日
2年前の事になる。
母が心臓手術を受けた。 【心やさしい読者の皆さんに無用な心配をかけないため、あらかじめ断わっておきますが、現在、母は元気に回復しています。時折、僕に電話をかけてきて小言を言えるまでに回復しています。】 実家からの電話は、悪い知らせのことが圧倒的に多い。 一昨年秋の初めに弟からかかってきた電話は、ご多聞にもれず悪い知らせだった。母の心臓に悪いところが見つかり、入院することになったとの事。ただ、この時点での家族の認識は「健康診断でちょっと異常が発見されたので、少し入院して様子を見る」といった程度の軽いものであった。普段だったら少し驚くくらいで気にも留めないのだろうが、今回は帰省するよと弟に伝えた。弟は、少し意外といった感じで電話を切った。 たしかに以前の僕であったら、仕事にかこつけて気にも留めていなかったに違いない。虫の知らせ、と言えばそれらしくも思えるが、その時の僕に予感めいたものがあったわけでは決してない。ただ、久しく帰ってもいなかったので、これを機会に実家にも顔を出しておこうと思った程度だ。 以前記事にしたが、僕は祖母の死に目に会えなかった。いや、祖母を見取ることから逃げ出した。その後悔の念は今を持ってもなお僕の心の深淵に息づいていて、ふとした拍子に暗闇の中から立ち上がり僕を指差し面罵する。もちろん僕を非難しているのは祖母ではない。祖母はきっと許してくれている。僕を許していないのは、他ならぬ僕自身だ。 やがて母は病院を転院する。実家のある街にもそれなりに大きな病院はあるのだが、容体が不安定なので車で一時間以上かかる仙台市の病院まで救急車で搬送されたとのことだった。その事一つで事の重大さがわかりそうなものだが、僕はどうにもこうにも楽観的にできているものらしい。その事を聞いても母の病状がそれほど重篤であるという想像すらしなかった。 会社に数日の休暇を申し入れ帰省した僕は、仙台の病院で弟と落ち合った。母の病室を訪れる前に、担当医の説明を聞こうということになり、僕は生れてはじめてカンファレンスルームという場所に入った。ドラマなんかで見るより、ずいぶん狭い。そんなのんきな感想を持てるほど、その時までの僕は母の手術を甘く見ていたのだろう。 担当医の説明は、どこか希望的観測を持っていた僕の気持ちを打ち砕くものだった。 一刻の猶予もない状況。おそらく僕よりも若いであろう担当医は、言葉を選びながらもそう言った。 【病状の詳細については省かせていただきます。もしかしたら母と同じような病気を抱え、ブログを検索している人がいるかもしれません。その方に不用意な情報を与えることはしたくありませんので、病名や症状・手術の詳細については記述しないことにしました。その分わかりにくい文章になるかもしれませんが、ご了承ください。】 「今手術を行わなければ、いつ血管が詰まり心停止するかわかりません。そういう危機的な状況です。」 担当医は真剣な面持ちで僕たちに説明した。 それはつまり、とまで口にしたけれど、後は言葉にできなかった。 「手術の成功率はどれくらいですか?」 僕が口にすることをためらっていた言葉を、弟が尋ねる。 「手術自体は本来難しいものではありませんが、心臓を止めるのでリスクが全くないとは言えません。それにお母さんの場合は他の要素もあってどのような不安要素が出てくるかわかりません。数字で表すことはできません。ただ、先ほど言いましたように今手術をしないと、いつ血管が詰まるか分からないのです。」 できるだけ冷静に聞いていたつもりだった。でも、担当医は最後の最後まで僕たちが期待していた一言を口にすることはなかった。もちろん安易に言う事が出来ない彼の立場は分かる。十分すぎるほどわかるつもりだ。けれど・・・。僕はその時はじめて、母が死に直面しているという事実と対峙した。 僕たちは入ったときと比べ物にならないほど疲弊した心持で、カンファレンス室を後にした。 担当医にあいさつをするのを忘れたと気がついたのは、だいぶ後になってからだった。 病室に入ると、母は驚いたような表情を見せた。 「わざわざ来てくれたんだ。すまないね。」 僕の顔を見るなり、母は謝った。 心臓に死に直結する重い病を抱えながら、母は僕に謝った。 謝るべきは僕のほうじゃないか。心配ばかりかけてきたのは、僕のほうじゃないか。 母の心臓を蝕んだのは、病なんかではなく僕なのかもしれないというのに。 病院のベッドの上で、浮腫んだ顔に少し照れたような表情を浮かべ、母は僕に謝っている。 仕事休ませてしまってすまないと、母は僕に謝っている。 僕は言葉を失って、ベッドの脇に立ちすくむしか無かった。 母の手術は13時間に及んだ。 通常なら5~6時間で終わると聞かされていたので、6時間を過ぎても終わらない手術に容易ならざる状況であることが次第に明らかになってきた。待合室には親戚が大勢詰めかけていたが、その一人ひとりが代わる代わる母の病状と手術の成否について尋ねてくる。そんなの医者でもない僕にわかるわけはないのだが、分かる範囲の事と術前に医師から聞いた話を、できるだけ噛み砕いて皆に話す。 ふと気がつくと、9歳になる姪が隣に来て僕が親戚に話す説明を一生懸命に聞いている。 母は孫にあたるこの姪をことのほか可愛がっており、姪もおばあちゃんに懐いていた。 姪はきっとこの小さな心で不安感と闘っているに違いない。 僕は姪の頭を撫でながら、担当医が決して口にしようとしなかった一言を口にした。 「きっと大丈夫だよ。」 姪はにこりともせず僕の顔を見つめていた。 出来る限り言葉に自信を込めたつもりだったが、姪の瞳から不安の影は消えない。 大丈夫じゃないのは、言っている僕が一番よくわかっているのだから無理もない。 手術が終わったのは夜10時を過ぎたころだった。 エレベーターから運び出されてきた母のベッドには数知れない医療器械とチューブが付けられ、それが母の命を保っているというのが一目でわかった。カンファレンスルームに表れた担当医は明らかに疲弊した表情を浮かべていたが、手術は一応成功したと言った。だが、その言葉に手放しで喜べないのは我々自身がよくわかっていた。 その晩は僕が病院に泊まり込むことになっていた。実家は病院から車で一時間ほどの距離にあり、一番身軽だったのが僕であったからそうする事にした。付き添いと言っても専用の部屋があるわけでもなく、病室の空いているベッドに寝るだけ。手術待ちの疲れですぐ寝れるかと思ったが、病院の窓越しに見える東北随一の歓楽街のネオンがやけに明るく感じられ寝付かれなかった。 ベッドに横たわりながら、僕は同じ病院の一室で、今まさに鼓動を止めつつある母の心臓の脈動を感じていた。今この瞬間にも、死に向かいつつある母の心臓の存在を感じ取っていた。それはドラマティックな感想でも何でもなく、心臓という筋肉の拍動が奏でる微かなかすかな振動であり、同時に母の命そのものの圧倒的な存在感だった。 不思議な話だ。 僕と母の縁は、もしかしたら他人よりも希薄だったのかもしれない。僕の養育者として絶対的な存在であったのは祖母であり、母はその次であったような気がする。母は母に違いないのだけれど、初孫を溺愛する祖母の影に隠れて一歩身を引くような距離感があった。それが意図したものだったのか、それとも母の性格から生じた物かはよく分からない。ただ祖母が亡くなってからもその距離は変わらなかったのだ。 それが、病院の一室で死にゆく母の鼓動を感じ取った時、その時はじめて母の母たる存在感を僕は感じていた。もしかしたらそれは、胎内にいる子供が感じる母親の存在感と同じだったのかもしれない。 夜半にふと目が覚めた。 カーテンに懐中電灯の明かりが映るのが見えた。 その事が何を表すのか。 その事が瞬時に頭の中を駆け巡り、僕は戦慄した。 母の容体に何か問題が発生したため看護師さんが僕を呼びに来たのだ。 「・・・・さん、先生がお話があるので来ていただけますか?」 時計を見ると朝の5時だった。 とうとうその時が来たのか。血流が頭から下がっていくのがわかった。 母の術後の状態が良くなく、早急に再手術が必要であると担当医は説明した。しかも、その手術をする事によってまた別のリスクが生じるのだが、今手術を行わなければ母の心臓は止まる。確実に、止まる。手術の同意書に署名をしながら、僕は止まりつつある母の心臓の存在を、また感じていた。 夜明け前に母の再手術は始まり、会社員らが会社に出勤し始めるころに終了した。 「再手術は成功しました。心臓はかろうじて状態を回復しつつあります。しかし、このまま機能が回復しない可能性もあります。ここから後はお母さんの心臓の回復力にかかっています。」 担当医の顔にもさすがに疲弊の色がうかがえた。無論、それは僕らも同じだったに違いない。 それから約3週間にわたり、僕は病院で過ごす事となる。 付き添いと言っても特に何もすることはない。朝、昼、夕方とI.C.U.に入って麻酔で眠ったままの母の様子を数分眺め、機材の数値に一喜一憂し、頻繁に訪れる見舞客に母の容体を説明し、残りの時間はただ漫然と病院の待合室で過ごす。いつ何時容体が急変するか知れないので外出はできるだけ控えるようにと言われていたので、食事の時を除き病室内で過ごした。それはつまり、容体が急変し処置の必要が生じた時に同意をとるための要員としての付添いだったのだ。 「お母さんの容体が安定するまで付いて上げて下さい。」会社の社長がそう言ってくれたのがありがたかった。もし僕が前の会社に勤めていたのならこんな付きそいはできなかった。きっとこれも幸運だったのだろう。僕が転職したのはこの時の為だったのかもしれない。ふとそんな思いが頭を過ったりもした。 母の手術の間に初秋から晩秋へ季節は移ろい、やがて初冬へと差し掛かっていた。 その間、母と同じ病状の患者さんの手術が数件行われ、数日で退院して行った。 結論から言うと、僕が帰るまで母は麻酔で眠らされたままだった。 容体がある程度安定したのを見届け、付添を弟と交替し僕は名古屋へ戻った。仕事の事ももちろんあったが、麻酔から覚めた母と何か言葉を交わすのが照れくさいという気持ちがあったのも確かだ。付き添い中に7回くらい読み返した「竜馬がゆく」は実家に置いてゆき、それは甥っ子の本棚に今は並んでいる。 手術から2ヶ月ほど経ったある日、実家からの電話で母の声を聞く事が出来た。久々に聞いた母の声は長い期間人工呼吸器を挿入されていたため、ひどくしゃがれていた。 「ありがとう。」 母はしゃがれた声で、そう言った。 僕は母に感謝されるようなことは何もしていないのに、母はそう言った。 電話を切った後、僕は声にならない「ありがとう」を呟いて一人泣いた。 「ありがとう。」 母の日の贈り物が届いたと伝える母の声は、もうだいぶ以前の声に戻ってきている。 あれから2回目の母の日だ。 大したものは送って無い。ありがとうなんて言われるほどの事はしてない。 あなたが元気でいてくれる事、 生きて鼓動を続けてくれているその事こそが、 僕にとっての「ありがとう。」だ。
by bungo_eva
| 2009-05-10 00:44
| 雑文のようなもの
|
ファン申請 |
||