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”海に降る雪”について
雪は絶え間なく降り続け 絶え間なく消え続ける いく千万 いく億 いく兆もの 雪の結晶が 音もなく消え続ける ”大いなる消費” **************** 「消え去り続ける言葉」を テーマに言葉を綴ります 本サイトはこちらです。 自称ダンディ文豪(自称)の戯(ざれ)言 お気楽お楽しみなんでもあり。 皆さんへのコメント、訪問は こちらのe_vansが伺います。 以前の記事
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2008年 11月 11日
どうして書き続けるのだろう。
近頃、そう考えることが多くなった。 昔から文章を読むことも書くことも好きだったのは確かだけれど、こうやって何かにこだわりながら書き続けているのは何故なのか。物語を書かなくっても、日常生活に何の支障もない。むしろ、幾分でも人を笑わせたり感動させたりできる物語を書こうと思ったら、文才なんて上等な代物ははなから持ち合わせていないのだから、かなり頭を悩ませなければいけない。話の筋を考えてすんなり眠れない夜もある。いつ情景を思いついても良いように、筆記用具は手放せない。にも関わらず物語を綴りたいと思うのは、自分の心の奥底に自分でも気づかない何かがあるのかも知れない。 源流、とでも言ったらいいのだろうか。 大地の奥底に見えない水脈が流れるように、意識のずっと深い所で流れ続ける川がある。時折、僕は地面に耳をつけ水の流れる音を聞く。神経を集中してようやく聞き取れる鼓膜の震えに、僕はその存在を確信する。それがどのようなものなのか、何でそれが僕を突き動かしているのか、この文章を書いている今も明確な答えは出ていない。 ただ、頭の片隅に浮かぶ一つのイメージがある。 それはこんなものだ。 名もなき語り部たち 太郎は村境の丘に立って、隣町から続く街道を眺めていた。 丘の上に桜の古木が植えられており、春には薄紅色の花をつけ村人たちの目を和ませるのだが、この季節には赤茶けた枯葉を太郎の肩に降りかけるだけだ。それでも太郎は手触りの悪い古木の幹に手を添え、時折背伸びまでして道の向こうを見やる。 道の両脇には刈り入れを終えた田が広がり、村に秋の訪れを告げる。村を囲む山々は赤や黄色の彩りを増し、畦に架けられた稲藁に赤蜻蛉(とんぼ)が止まっている。 太郎は朝から飽きもせず、平介が姿を現すであろう道の曲がり角を見つめていた。 誰もいない道の上を、秋風が通り抜けた。 行商から帰ってきた弥三郎叔父が、隣町の旅籠に薬売りの平介が来ていたと教えてくれたのは、昨晩の事だった。叔父は旅塵を払うのもそこそこに、上がりかまちに腰を降ろすなり奥にいた家人に声をかけた。今年も平介の来る季節になったんだな、と両親は感慨深げに言い、太郎はその便りを聞いたとたん飛び上るように喜んだ。まったく太郎は平介が好きだな、と弥三郎叔父が言うと太郎は少しだけ得意な気分になった。平介は村々をまわって薬を売って歩く行商人だった。この時代、医者などはお殿様のいる大きな町まで行かなければ見ることもできず、それだけに平介のような行商人が人々の生活にとって欠く事の出来ない存在だった。 太郎は背伸びして、やがて平介が姿を現すであろう道の先を見つめた。 太郎の世界は狭い。この村堺の丘から見渡せる狭い山間の小さな村が太郎の知る世界のすべてだった。お父や弥三郎叔父はそれよりも少しだけ世界が広い。それでもここから歩いて丸一日かかる城下町までがせいぜいだ。平介はそれよりもはるかに遠くの村からやってくる。小さな村々を回り、旅籠のない村では世話人の家に泊まりながら商いをしていた。 太郎は平介が好きだった。太郎に限らず、村人の誰もが平介の訪れを心待ちにしていた。毎年秋の刈り入れが終わり、そろそろ冬支度を始めようかと村人たちが思い始めるころに平介は村に姿を現す。他の商人たちが背中を丸め足早に歩くのに比べ、平介は鷹揚(おうよう)に山や木々を眺めながらおおよそ商人らしからぬ容貌で歩く。まるで殿様が歩いているようじゃ、村人ははやし立てるが平介は気にも留めない。 平介が家に来ると、さほど多くない村人たちが総出で宿泊場所になっている太郎の家に押し掛ける。皆、平介の話を聞きに来るのだ。それを知っていてか、平介は薬の商いもそこそこに、囲炉裏のいつもの場所に陣取って諸国の出来事を面白おかしく語り始める。太郎は囲炉裏の火に照らされた平介の顔を眺めながら、まだ見たこともない江戸の町の賑わいや他国の話を思い浮かべるのが好きだったのだ。 「平介は、なしてそんな面白い話を知っているの?」 太郎はあるとき平介に尋ねた。 「いろんな国をあるいているからのぅ。」 「でも、他の商人は平介ほどには話できんぞ。」 平介は少し考え込む様子を見せた。 「たぶん、他の商人は歩くのが早すぎるんじゃろ。話ってもんはな、ぼん。みんなのココの中にあるんじゃ。」 平介は太郎の胸の辺りも指差した。 「ゆっくり歩いて景色を眺めとったら、話なんてモンは自然に出てくるもんなんじゃ。」 そう言うと平介は人懐っこそうな笑顔を見せて笑った。 曲がり角から人影が見えた。 気がつくと太郎は丘を駆け下りていた。 村人たちとは明らかに違う、殿様のような歩き方。平介に違いない。 「ぼん。大きゅうなったのぅ。」 平介はそう言って頭を撫でてくれるはずだ。 太郎は去年より少し丈の短くなった着物の裾をからげ、頬に秋の風を感じながら平介の影に向かって道を駆けおりて行った。 ◆ この時代にテレビや新聞はない。 にも関わらず、昔話の類(たぐい)は日本各地に多くの類型が存在する。無論、その多くは明治時代に整えられた初等教育の賜物であるかもしれない。しかし、それ以外に村々をめぐり多くの物語を語り伝えた平介のような名もなき語り部たちが数多くいたのではなかろうか。彼らは歴史の教科書にも国語の教科書にも載ることはない。ただ、彼らが伝えた物語のいくつかは、人々を諌める道徳の物語として、またある物語は悲恋の恋物語として、日々の労苦を忘れさせる娯楽話として、人々の心の中に生き続けた。物語のいくつかは根を下ろした土地の空気を養分として様々な変遷を重ねる。その伝搬を司っていたのは、紛れもなく我々の父や母たちであったはずだ。 文化とは華麗な建築物ばかりを言うのではない。 平介たちが心の中で作り上げた物語は、文化の縦糸として現代まで生き続けているのではなかろうか。 たぶん、と僕は思う。 僕はそういう物語の語り部になりたいのではなかろうか。 無論、現代において情報は平介の時代と比べ物にならぬほど氾濫し、物語の新鮮味は失われてしまった。 映画やテレビや出版物、そして多量に生産し消費される物語の数々。 それを否定するつもりは全くなく、その中にも僕が大好きな物もある。 だけど、僕の立つ場所はそこではない。 僕は平介のような名もなき語り部になりたいのであろう。西鶴や芭蕉のように名を知られた物書きではなく、国々をめぐり人々と触れ合い、他人よりゆっくり歩きながら目にした景色を元に人々の心の片隅に残る物語を紡ぎだす名もなき語り部。それが僕の奥底に流れる水脈の実像なのかも知れない。近頃、そんな風に考えている。 僕はこれからも日々消費されていくだけの毎日の中で、何にもならない、何の役にも立たない、消費され消えていく言葉を書き連ねていくのだろう。あたかも、森の枯葉が地面に降り積もり、長い時間をかけて肥沃な山の土となり、鬱蒼と茂る樹木を育てるように。 それでいい。 そうでありたい。 そんな風に思っている。
by bungo_eva
| 2008-11-11 21:23
| 雑文のようなもの
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